人間は本来喜びの表現体。
子供の頃から、私の中には、“人間は本来喜びの表現体なんだ!”という信念がありました。
なぜそんな考えを持ってたのかなと考えてみると、
私は熊本の田舎で生まれ育ち、
自然が豊かだったんですね。
自然が美しくて美しくて
自然の中で過ごすことは、小さい自分にとってパラダイスであり、至福の時であり、その美しさ、自然の神秘を肌身で感じ取っていました。
好奇心の塊だったので、飽きることはなかったですね。
四季の移り変わり、
小川のせせらぎが大好きで
一日眺めていられたり、
その穏やかな小川が、大雨が降った後は、濁流に豹変していたり
自然がなせる業というものに釘付けになっていたのを思い出します。
竹のまっすぐ上に伸びるその姿や、
竹林にかぐや姫いるかなとか想像したり
種類の違う木々がたくさんあって、
虫たちや雑草、花々
すべてが美しくて
調和している
その自然の美。
それとは裏腹な人間の姿をみて、疑問だったんですね。
自然はそのまんまでこんなに壮大で圧倒する美しさで迫ってくる。
なのに、人間は不幸そう。
ストレス溜めながら働いて
みんな幸せになりたいはずなのに。
そんな大人。人間。
大事なものを見失っている人間の姿が目の前にあって。
本当は、自然がこんなに偉大なんだから、人間が生きているということは、本当はすばらしくて感動で神秘なことしかない、
喜びしかない。そのはずなんだ、
人間が今の姿でいるのは、
きっと何かがおかしいんだ、
なんでこんなおかしな世界になっているんだろう
その理由が知りたい。
そんな疑問を持って、その答えを探すようになりました。
そして、ある人に出会ったんです。
その人は私が考え及ばなったところまで疑問を持っていた人で
その考えの幅広さと深さに
人間の追求するその可能性と、
美しさを感じずにはいられませんでした。
その人はNoh Jesuさんといいます。
疑問を持つことは大事なんですね。
きっと答えに出会えるから。